副鼻腔がん患者(女性)の体験談(1)

 副鼻腔がんと乳がんで、7年前に成人病センターにお世話になりました。私が最初に、この病院に来た時、こんな先までの事は考えられませんでした。患者会の中には退院されて日の浅い方もおられるので、平凡な体験かも知れませんが、退院して6年とか7年とか経った者の話を聞かれたら少しは安心されて良いかなと思い、話をさせて頂きます。

 

 最初に自己紹介させて頂きます。大阪生まれで学生時代は東京で過ごして、卒業後は兵庫県にいて、今はI市在住です。入院前は店舗や住宅インテリアの設計とか,資格対策講座や、専門学校等の非常勤講師もしていました。

 結構忙しい仕事で、バタバタしている間に何だか左の鼻がおかしいなと思い、耳鼻科のお医者さんに行ったのですが、鼻炎だからと内服薬を下さったので、薬局で買っても同じかなと、半年ほど市販の内服薬で過ごしていました。片方の鼻だけ、鼻水のオレンジがかったのが出て、血が混じっているみたいだけど…おかしいかなと思いながら、子供も二人いましたし、忙しさに紛れてしまいました。

 2004年の春休みに、片側だけ顔が腫れているような気がして、これはちょっとおかしいなと、どこかお医者さんに行かなきゃと、近所の医院でMRICTもある所に行きました。普通の内科医院ですが、すぐCTMRIを撮ってくれて、検査室から出ると、技師さん達が「これは、エライことだ」みたいに顔色が違うのですよね。どうなのかしらと思いながら説明を聞くと、私は落ち着いていたのですが、お医者さんの方が「Iさん!落ち着いて下さいね。」って、「もしかしたら大変な事かも知れない・・・。でもひょっとしたら、ただ形が大きいだけかも知れないけれど、念のため関西で一番の病院を紹介しますので、1日だけ待ってください。自分の知り合いを辿って、ベストな方を紹介しますから」ということで1日待ちました。そして次の日に、ここ(成人病センター)の、この方を主治医にという、先生宛の紹介状を頂きました。

 

 初めて来た時には、すごく古い病院だなと思って、暗い気持ちで居たのです。診察を待っている時、その頃は今よりも待合室がもっと暗くて、昔に治療された痛々しい方がおられたので、えらいところに来てしまったなと思いました。最初は鼻の前から取れる範囲で、細胞診をされたのですが、その結果は良性でした。ただし「大きさからみると、かなり悪性の可能性が高いし、オデコにも影があるので、それも含めて、こうこう、こういうことをしないといけないし、頭蓋骨にドリルで穴を開けなくてはいけません」と言われました。ハハーっという感じであっけに取られているうちに,どんどん、どんどん事が進んでいきました。

 入院してみたら、先生や看護師さんは、すごく丁寧に親切にして下さったし、病院の暗いイメージを吹っ飛ばすくらい明るい看護師さんも多かったので、良いところに来たなと思ったのです。病室は4人部屋だったので、他の人の話を聞いたら3回目の入院だという人もおられて、へぇー3回も手術する人があるのだと、気が遠くなるような感じがしました。自分がその後3回手術をしたのですが、手術の度に、その何回も手術された方の事を思い出して気を落ち着けました。

 済んでしまうと、この程度で済んで良かったと思うものの、やはり普通の日常とはすごく違う世界を知ってしまって、その落差に驚きます。助かったから、こういう体験も人生経験としては良かったなと思いますけれど、病気にならないに越したことはないので、子供達には「体の不調に、気を付けるように」と、今後も言っていこうと思います。

 病気自体は、ここ(鼻の脇)の中にピンポン玉くらいの空洞がないといけないらしいのですが、左側の空洞が一杯なくらい大きな腫瘍になっていたのです。CTで、「ここに影がありますよ」という状態で、成人病センターに来て、「この大きいピンポン玉を取るのに、もし良性だったら、そのまま、すぐ取ります。でも良性でなかった場合は1回閉じて、後の事はまた相談しましょう。」ということで、とりあえず開けてみないと分らないし、急げ!と、割と早く日程を取って下さって手術にかかったのです。

 ここ(副鼻腔)と、ここ(前頭洞)に影があり、同じ日に開けて見たのですけれども、前頭洞は繊維みたいなものがたまっていて、癌とは関係ないとのことでした。そして、こちら側(副鼻腔)は手術中の細胞診で悪性だと分かり、その時点で、「取るのは止めて、超選択的動注をするために、耳の後からアプローチしたけれど血管が細くて、これ以上いじると大出血したりするので諦めます。」という説明があったと、後で父に聞きました。

 数日後の説明で、癌の種類は扁平上皮癌高分化型で「放射線と抗がん剤の治療でも、うまく行けば治ります。もし切り取ってほしいというのであれば、目も含んだ状態で大きく切ります。手術となると、それくらい取らないと安心出来ませんが、どちらかを選べますよ。」とのお話でした。その時の印象深い言葉で、「だけど入れなくていいメスを入れるのは、僕は犯罪行為だと思います。」とおっしゃったのです。「手術しなくても、うまく行けば治る」という言葉があったので、「じゃあ手術しないで放射線と抗がん剤で」と、お願いしました。説明後にベッドの方で、どうなるのだろうなあと不安そうな顔をしていたと思うのですが、主治医の先生が、「うまく行けば、というのは当てモノで言っているようなことではなくて、うまく行くという見通しがあって言っていますから、安心してください。」とニコッとされたのですね。その時の事がすごく印象に残っています。

 普通の診察の時は淡々と、補足とかは全然なく、医学的説明だけをされる先生なので、少し不安だったのですが、入院してからは、この時ニコッとされたのと同じ調子で、色々な説明を丁寧にしていただきました。その先生の手術後の様々なお話とか、看護師さんの親切さで、すごく入院生活が、楽しくというと変ですが、安心して過ごせました。それはとても良かったなと思います。

 何時どのお薬をしてとか詳しく記録される方もありますが、私はあんまりメモしていないのですけれど、抗がん剤をしながら放射線の治療を60グレイしたというのは覚えています。皆さんもご承知と思いますが、放射線はそんなに辛くはないです。でも抗がん剤は目茶苦茶吐き気が強く、3クールの予定を、2クールでギブアップして、もう勘弁して下さいと、終わらせてもらいました。

 放射線の方は、順調に回復しているとのことでした。ここの病院では部長が定期的に診て下さるのですが、部長診察の時にも「よく効いているね。」と言って頂きました。最後に治った筈のところをプチプチと細胞診のために取ってもらい、またこれで悪くなったらどうしようと思いながらも、ほっとしました。

  20045月に入院してから、3ヶ月後の8月初めに、一応治ったということで、ちょっと不安だったけど退院となりました。その頃は専門学校の非常勤講師だったのですが、幸い学校は夏休みに入っていたので、ちょっと休めました。前期は友人に授業計画を渡してバトンタッチして、後期は自分でということで、退院後2ヶ月で仕事に復帰したのです。

 入院した時に出来た闘病仲間の方と偶然に家庭環境がよく似ていて、その頃はメールのやり取りで、すごく元気付けてもらって、回復のために良かったなと思います。でも病気が良くならなかった人もあって、私が随分励ましてもらったのに,逆になっちゃったなあと、悲しい思いもしました。それでも、残念な結果だった人よりも、無事(存命)な人の方が多いし、傷跡が綺麗なので、成人病センターは、他で見聞きする例と違うなあと、しみじみ感謝しながら数ヶ月経ったのです。

 診察の時に、先生がいつも首を触診して下さるのですけれども、11月頃「おかしい」と言われました。転移しているということで、リンパ節の郭清を、今度は冬休みにしました。クリスマス前に手術して、お正月明けに退院でした。

 転移したのですから、これは何とかしなくちゃと思っている矢先に、何かちょっと胸の辺が硬い、どうもおかしいなと気づきました。今度は乳癌かもしれないという事で、また紹介状を書いてもらって、別の癌になったのか、転移なのかと、すごく思い悩みながら、もう1回ここ(成人病センター)の外科のほうで診てもらったのです。

 やはり細胞を検査しないといけないので、注射器の親玉みたいなものを刺して、ガッと細胞を掴んで、むしり取るけど、「麻酔をかけますから大丈夫」と先生はおっしゃったのです。だけど目茶苦茶痛かったですね。弾丸が当たったみたいに、すごく痛い。涙を浮かべて辛抱しました。後で、もう1回することになって、その時は麻酔が効いたみたいで、そんなに痛くなくて、本来は最初のようには痛くはないのだ、麻酔の失敗もあるのか…と思いました。

 この細胞は、腺癌(副鼻腔がんとは別)で、先生は「浸潤性(予後が悪い)という疑いもある。でも非浸潤性(予後が良い)の方が可能性は高いと思います。手術の時にもう1回調べますから」と言われ、平たく面積が大きい形だったので、片方の乳房全摘でした。「手術中の細胞診でも浸潤性の可能性があり、念のためリンパ節も全部取りました。腕が動きにくくなります。」というようなことで、リハビリの方法とかも教わって、3回目の退院となったのです。(術後の検査で非浸潤性と判定されてホッとしました。リンパ節は惜しいけれど。)

 結局3回も手術を受けることになったのですが、先生方の説明は、曖昧さがなく、すごくはっきりしていて、最初の説明の時も「このまま放っておいたら、間違いなく命を奪われます」とおっしゃったのでドッキリでした。もちろん治療すれば、治る可能性はあるのですが、「命を奪われる」という言葉は私にしたら、かなりショックで、要注意と聞こえました。でも、そういう恐れもあったとは思います。後で耳鼻咽喉科(頭頸部外科)の主治医に何期だったのでしょうかと伺ったら,「最初Ⅱ期とⅢ期の間と思いましたけれど、転移したということは…(少し進んでいたということでしょう)」という答えだったので、Ⅲ期だったのだなと思いました。

 転移と多重がんという経験をした後で、何とかこれは食い止めなくてはいけないと思い、サプリメントとか、病気関連の本とかに引きつけられました。書店でも、図書館に行ってもそういう所に足が向いてしまい、癌関係の本も、立ち読みを含めてだいぶ読みました。また知り合いに病気と伝わると、変な販売方法(マルチ商法)で、営業をされる方があって、色々効能があると聞き、1通りは試してみましたが、あまり効果も分からないままでした。ただ試すことで気が紛れたのは良かったかもしれません。一番反省したのは食事療法を、少し知識はあったのに、あまり実行していなかった事です。

 それで3度目の退院後は『星野式ゲルソン療法』や、境野米子さんの『病と闘う食事』という本を参考にして、自分流に、とりあえず食塩と砂糖は止める、という感じで始めました。元々食塩が入っている食品は、それは(含まれた食塩は)避け難いです。「普通の食品の中に含まれている塩分はいいわ(見過ごそう)」と、出来る範囲だけで、工夫することにしました。ただ、つゆとかは極力減らして、外食の時は、ざる蕎麦にして、ちょっとだけつゆに漬けるのですけど、あとは無塩のまま食べるという感じで、自分で出来る範囲の方法と、野菜ジュースを飲んだり、青汁を飲んだりとかを続けました。

 娘がいちいち「お母さん,それはダメ」と注意してくれたので、それに従って、難しいことは抜きに、出来る範囲のことだけしてみました。甘い物は好きでしたが、おやつにも味付けにも、ほぼ禁止しました。「少しは休みを設けてもいい」と書いてある本も読んだので、ここ(病院)に来て診察をクリアしたら、帰りには自分の好物を食べたり、買って帰るなりして、1年半位はおっかなびっくりしながら過ごしました。

そんなことをしているうちに、無事な期間も長くなって、ある程度安心感を抱けるようになって来たので、2年後ぐらいから、だんだん緩めて、今は普通の食事に少し減塩の工夫をしています。

 

 病気になったのは、忙し過ぎたというのが、原因ではないかなと思っています。あんまり器用でない人間なのに欲張って、仕事も家庭の事もしないといけないと、成り行き上、無理な状況になってしまっていました。頼まれた仕事は皆受け、アルバイト的なことも引き受けましたので、余りにも仕事が多すぎたのだなと思います。入院した当初も仕事を持って来て、看護師長さんに目を丸くされたような事がありました。今は景気も悪くなり、自分もこんな病気でブランクもありで、仕事の量も減って、それで無事なのかなと思います。最初の手術後とか、やっぱり転移とかがあった時というのは、もっとスパッと仕事も減らして、ホントに1年位、治療に専念できれば良かったと思います。

 退院したら、一応「無理をしない範囲で普通に戻っていいですよ」と、先生はおっしゃいますけれど、それだけではないのですね。心配ばかりしていてもいけないですし、前の仕事を全て断ち切ってしまうと、また逆のストレスもありますので、「普通に戻っていいですよ」という事は、一面良い事なのかも知れません。けれど患者の側としては、やっぱり止めるくらいの、きっぱりと違うことをして、1年位は治療に専念するという方が安全なんだろうなと思いました。

 忙しかったので本当は本好きなのに、何年も本を落ち着いて読んでいませんでした。入院中とか退院後は、今まで読んだことのないジャンルの本を読んで「ああ、色々違うことを考えないとイカンのやな」と、人生を別の角度から捉えることが大切だと思いました。

 運が良かったのは入院していた時に、カウンセラーのようなお仕事 (公共機関の相談員) をされている方と、偶然一緒だったのです。その方から、普通は水平に物事を見て考えているけど、ちょっと行き詰まったときは,斜め上空から、全然角度を変えて全体を俯瞰して見て、人間関係とかの直接的な事でなく、もっと違う次元から考えてみると良いという内容の本を貸してもらったりしました。その方に5時間位、悩みを聞いてもらって、プロのカウンセラーの方に聞いてもらったような感じになって、それも良かったと思います。

 それと星野道夫さんの、大自然を写した写真集を身近に置いて時々眺めるようにしたり、中村天風さんの「元気になるのには、おヘソの下に気合を入れて精神統一をする」という方法とか、すごい難病と闘った方の本を読むとかして、元気を取り戻すようにしています。

 その頃にインターネット上のブログなどを見たりしていて見つけた詩と、先日朝日新聞の天声人語に載っていた詩を、今日持ってきてお配りしました。それだけ読んで終わりにしたいと思います。最初は詩人の島田陽子さんの詩です。この詩は病気になった人の気持ちを、よく表しているなあと思います。(詩の朗読)

 

「滝は滝になりたくてなったのではない」

   滝は滝になりたくてなったのではない

  落ちなければならないことなど

  崖っぷちに来るまで知らなかったのだ

  まっさかさまに

  落ちて落ちて落ちて

  たたきつけられた奈落に

  思いがけない平安が待っていた

  新しい旅も用意されていた

  岩を縫って川は再び走りはじめる

(2011年4月18日に膵臓がんで亡くなられた詩人・島田陽子さん(享年81歳)の詩)

 癌にかかるまで、本当にそこに行くまでは崖っ淵があるということを知りませんでした。今はちょっとだけ平坦なところに居るので、なるべく皆が少しでも平坦な、崖から少しでも離れたところに来れるようになれば良いなと思っています。

 

 後の2つは、北原敏直君という筋ジストロフィーで15歳で亡くなった少年の詩です。(詩の朗読)

 

「きにしないこと」

  きにしないこと

 空の雲のように

 どこに流されようと

 草花のように

 たとえ一年の命でも

 それで私は時々空の雲を見るようにしています。そういう風に考えた子も居るくらいなのだから、彼の何倍も生きているのだから、もっと悟らなくてはいけないなと思いました。(詩の朗読)

 

「肉体はなくなっても」 

  肉体はなくなっても

  ぼくは生きている

  三次元をこえて

  高次元のはて

  宇宙の根源と化す

  ぼくは死ぬのではない

  肉体をすてるのだ

  服をぬぐように

  肉体をはなれても

  ぼくはあらゆるものに生きる

  自然のいぶきと化し

  足もとの砂にも

  満ちている空気にも生きている

  そうでありたい

  死をこえなにものにも生きる

  そうでありたいため祈り

  体をなげだしても悔いない

  そうでありたい

  そうでありたいため祈ろう

  (北原敏直 詩集『星への手紙』 新書館より)

 

 こういう風な、『別の次元』で物事を考えていくという事が大切だと思いました。15歳なのに禅の高僧みたいな、こういうことを思って…亡くなってしまったのは残念ですが,彼が残してくれた事(功績)というのは、本当に「綺麗な気持ち」そのものなのだなあと思います。