口腔底がん患者(男性)の体験談(2) 2011.5.20

 お渡しした資料にありますように、私は口腔癌と言っても口腔底癌です。

 私に既往症というのは何にもなくて、入院したこともなかったのです。健康そのものかというと、そうではないですが、タバコは吸う、酒は飲むという生活をしていました。とはいえ、数年前に通風(尿酸値7.6)が出ましてね、食事制限があって困っています。

 私の病気の経歴を時系列に追って、お話させてもらいます。

 

 私は口腔底がんでしてね、非常に発音が悪いんです。舌はカットしていませんけれど、大手術で口腔底をごっそり取っています。舌根部がずーと下がっていまして、舌の動きが鈍いんです。大変聞き苦しくなりますが、ご勘弁ください。

 平成18年12月12日が初診なんです。開業医に行きました。それは物がみんな辛く感じました。味噌汁が非常に辛いです。そのうちに治る。口内炎か白斑症とかそういう病気だろうくらいに思って放っておいたのですが、治らないんです。3週間くらい経ってから、これはいけないと思って、耳鼻咽喉科へ行きました。それが12月12日。そしたらドクターがいきなり「これはあれだから、すぐ診療情報書を書くので、この足で総合病院に行け」と言われたのです。

 総合病院に行ったら、ドクターの先生が変な顔をするのですね。何かあるなとは思いましたが、その時点では癌とは思いませんでした。タバコを良く吸いますので肺がんになる確率は高いな、と自分では思っていたのですがね。まさか口の中に癌が出来るとは想定外でした。

 そこで生検をやったのです。口の中に米粒くらいの大きさのもの、自分では手で触っても分からないくらいだったのですが、ドクターがずーと調べていって、そこをカンシのようなもので取って生検した結果が、12月20日に確定診断で癌だということになったのです。

 確定診断の結果は、口腔がんで口腔底前部悪性腫瘍とされたのです。ステージはT3N0で、転移はありません。組織は扁平上皮がんという結果が出たということです。そこで私はどうしたかというと、「直ぐ手術をするか」と言われたのです。私は「ちょっと待ってください」と言いました。総合病院の判断は「放射線を当てて、縮小させておいてから手術をやって、摘出する」という話でした。それからが戦いの始まりでしたね。

 そこでどうしたかと言いますと、その総合病院に、「どこかセカンドオピニオンの適当な病院を教えてください」と聞きましたら、ここの成人病センターがいいんじゃないかといことだったのですね。私の友達にドクターが8人居ます。そこで友達に聞いたのです。私も20日に死刑宣告を受けたので、インターネットでいろいろ検索しました。いろいろ調べると、なかなか分かりません。私の父は胆臓がんで亡くなっています。祖母は膵臓がんです。父が死んだのが昭和50年ですから、もう35年もたっていますから、癌に対する意識はほとんどないのですね。当時の状態からすると、MRIは勿論PETも勿論CTもない時代でした。画像診断技術など何にもないのです。そういう時代に父は死んだのですね。それで私は友人や総合病院からここをすすめられた。自分がインターネットで調べても、ココが西日本ではトップだというのですね。いわゆるオペの症例数を調べたのです。日本医療品質機構というのがあります。ああいうところに出ているのを調べたんです。それでここを受けることにしたのです。

 ここは4月の初日にここに来たのです。電話では受けてないですからね。セカンドオピニオンの申し込みにここに来たのです。そうしたら次に12日に来いというのです。12日に来まして、オピニオンをやってもらった先生はY先生です。それでY先生も「手術がいい」とおっしゃったのです。「今日はデータに基づくセカンドオピニオンであって、診察ではないから、もう一辺診察に来なさい」と言われたのが、平成19年の1月16日でした。そして診察をされて、手術がいいということになったのですが、病室が空いていないんですよ。その当時、7階南の耳鼻科だけで60数人あるのですよ。入れませんよ。大変ショックでした。

 なぜショックかというと、癌ということが確定されて、1日1日遅れますよね。1ヶ月も待ったら大変なことになるという意識がそこにあったのです。居ても立っても居られなくなりました。今は癌を勉強するしね、60兆個の細胞が細胞の老化によって、2000~5000の細胞が毎日癌化しているのだと、今分かったのですがね。当時は全然分からなかったんです。その癌が直径10ミリになるのに10年から20年かかるのですね。10年から20年は早いのですね。今は分かっていますけれどね、当時は本当に1日が長いのですよ。1ヶ月待つのがすごいショックでした。確定診断が下ったときのショックと1ヶ月待つと言われたときのショック、この二つがあります。

 それで1月23日に入院しました。ですから確定診断から待機期間は33日間です。入院していろいろ検査をしました。口腔前方43×35mmの腫瘍があると。ということはこの1ヶ月間で、米粒くらいだったのです。そして歯肉の内側へ浸潤しているということだったのです。それで第1回目の手術が1月31日でした。入院は56日間入院しました。

 どんな手術かというと、手術の前に術前説明がありますね。うちの家族10人くらいが居まして、1時間半くらい説明を受けました。質問もしました。まず全身麻酔です。気管切開します。下顎骨区域切除(舌の下の顎を全部取る)、それから口の中の口腔底、歯茎、歯をガサーッとえぐり取ったのです。臓器の重さ1.7キログラムありました。これ(臓器の写真)は手術室から出て来て、ドクターが摘出した臓器を見せる筈だから、写真に撮れと弟に指示して撮らせたものです。朝9時に手術室に入って、出たのが夜9時半です。12時間半かかりました。これと同時並行で、左足の腓骨を1本血管付で抜いたヤツを顎の形にトリミング(整形)して、ココ(顎)に血管の付いたまま足の骨を入れました。骨を両方からピンで留めてあります。ココにチタンのプレートが2本入っています。それが顎の骨の代わりになっているのですね。そういう大手術でした。それで血管の吻合(顕微鏡下で血管を吻合)は3本(動脈1本、静脈2本)。血管は爪楊枝くらいの大きさですが、それを吻合しています。それからココの足の皮膚を取って、それを口の中に貼り付けてあります。植皮ですね。そういう手術をしました。

 第1回目の手術から56日間ここに入院していたのですね。入院の当初は、誰でもそうなんですが、私の場合はオペの翌日から首が動かせません。固定されています。水も飲めません。気管切開で、ココ(ノドの部分)から酸素を送っています。ものが全く言えません。ものも言えない、水も飲めない、足もやってますからね、大変です。ベッドを30度起こしても良いというのが3日目ですから。60度、90度・・・ボタンが見えないんです。そういう状態で過ごしました。

 やっと車椅子で歩けるようになっても、足を曲げてはいけないので、こうゆう感じで、ずーっと車椅子に乗っていました。私は歯茎もないし、いろいろ考えたんですが、咀嚼を援助する方法はないか、いろいろ考えたのですね。インプラントが出来ないですね。なぜ出来ないかというと、下顎骨がないから。スペーサーとして何か厚みのあるものを埋め込む方法を阪大の口腔外科がやっているようですけれどね、そういう方法も研究してみたんです。ただ仮にそういうことが咀嚼能力を若干でも回復することが出来たとしても嚥下がダメなんですよ。飲み込みが。ここに居るときも、リハビリしました。嚥下のリハビリと足のリハビリと発声練習(構音障害)をやりました。嚥下のリハビリは、スポンジの付いた、こんな棒をナースステーションの冷蔵庫で冷やしたのです。それを口の中に入れて、オエ、オエという嚥下反射をする。私の場合は舌因神経がオペでやられているのです。それでアエイオウという発声練習、それから足のリハビリ。3つを同時並行でやったのです。そういうことで、生きた心地がしないというか、拷問に合った状態だったですね。

 56日過ぎて退院しましたが、9月28日2回目の手術をしました。実は田舎(松山)に帰りましてね、春を過ぎたころ、ココがブアーと膨れて来ました。膨れたのは結局リンパ液が流れるところがカットされ、遮断されますから、リンパ液の流れが良くなくなって、1ヶ月くらい首が顎くらいの太さになって、それが引いたのにまた腫れました。おかしいなと、田舎のドクターも首をかしげていました。とにかく消毒しなくてはいけないということで、毎日通いました。開業医が私のために土曜日の午後も日曜も、ドクターの奥さんが看護師代わりをしてやってもらいました。ココに穴を開けましてね、ココから化膿した膿を出すのです。そういうことをやりました。その膿が出ている原因が分からない。感染していることの根本が分からない。そしてここに来ましたら、もう一辺開けてみようといって、またココからココまで切ったのです。開けて綺麗に掃除してみたら、足の骨の骨粉が1つ入っていたんです。それが原因だと、ここの病院で言われました。それを取ったら、すーと治りましてね。それが口腔皮膚瘻という穴が開いたのですね。そういう状態だったですね。そのときチタンのプレートが入っていますから、40%取ってあります。

 次に3回目の手術が右鎖骨下リンパ節摘出。鎖骨の下にリンパ節があるんです。レントゲンなどいろいろな検査をすると、どうも転移の可能性がある。田舎で、ココを切りましてね、それが3回目の手術です。鎖骨上窩付近筋門のあるLNですね。

 やれやれと思ったら、4回目が中咽頭に癌が見つかりました。それもたまたまドクターが、内出血があったがために分かったことで、PETCTで分かったのではないのです。調べたら中咽頭の表在がん(官腔臓器の粘膜の表面に癌が付いてもの)でした。その表在癌は組織検査をしてみたら、原発の口腔底癌とは組織が違う。即ち多重癌といわれる、原発の違う癌だという解釈ですね。これはレーザーメスで結構簡単でした。

ただし、ここで多重癌が出るということは、「今後口腔癌の場合は至る所にそういう多重癌の発生のリスクが極めて高い。」と。実は昨日Y先生もこう言っておられました。(昨日の講義では)喉と咽頭との違いなど分かりやすく説明されていました。そういうことがあって、4回目の手術が終わりました。

 

 一番難儀なのは「術後の障害」です。私は咀嚼困難です。歯もなければ、歯茎もないですから。年寄りは、歯がなくても歯茎で噛むじゃないですか。私は全然噛めないんです。思った以上に大変なのです。

 次に嚥下障害。嚥下障害がない人ですと、ソバなどはノド越しで、飲まずともすーと入るじゃないですか。私はソバもソーメンもモズクもダメなんです。納豆もココを越さないんです。嚥下反射がうまくいかないんです。ですから刻み納豆に生卵をとじて、やっと通るのです。ですから私は3食みんなミキサーです。

 「松江から大阪に来たらどうするの?」と皆に聞かれるのですよ。どうするかというと、食べ物が4つしかないんです。カレーライスをオーダーして、カレーライスのルーを取るのです。具は食べられませんから。ルーを食べるのです。それからマーボ豆腐。マーボ豆腐も絹ごしは食えるのです。木綿豆腐だと引っかかるんです。マーボ豆腐は辛子が入っているでしょう。辛子は非常に刺激が強すぎて口腔癌の者には良くないんです。あと2つは何かというと、天津飯。「天津飯はご飯を少なくして、・・・(注:発音不明瞭で記録できず)・・・は少なくしてね、具は全部出してね」と。もう一つはオムライス。オムライスも皮が硬い分は食べられません。ふわふわとしたのがあります。田舎のオムライスは全然食えません。大阪でいうと、ピッコロというオムライス専門店があります。あそこのオムライスは通るんです。こういう苦労もしております。ですが、血色いいでしょ。皆に褒められます。もう4年と3ヶ月が経ちました。

 私は、こうして癌の体験を至るところで話して歩いています。(配布資料に)名前は書いてありませんが、「ある癌検診啓発サポーターの病歴」と書いてあります。島根県の癌撲滅検診するところがあります。そこに届出してましてね、公会堂に行ったり、いろんなところを歩いて、1時間程度話しています。それが、私が癌を患って、癌と生活しながら、今やっている唯一の仕事です。

 あなた4年も癌と付き合って、ここの病院に私と一緒に入院しておった人が何人かおります。そのうちもう既に5人の人が亡くなったのです。同じ7階の病棟に居た人が・・・(注:発音不明瞭で記録できず)・・・非常にショックですけれどね。ですが、ものは考えようだと思います。開き直ったのです。そういう活動を通じて癌の患者に沢山接しています。一昨日は、アフラックという保険会社の社員30何人に集まってもらって、県が表彰されましてね。私が一応入りました。その前は、友達が癌で亡くなって葬式に行きました。胃がんですから。

 癌サロンという組織に身を置いていますと、知らなくてもいい癌患者に沢山知り合うのですね。かなりショックでした。ですが、逆に同じ病を患っている者が同じテーマで話すということは励みにもなるのです。

ですから老若男女いろいろ居ます。癌という共通項しかないんです。そこで話し合うことで、非常に癒される。あるいは癌の情報が集まる。というようなことがあったりですね。それは私にとっては非常にいい意味でのプラスになっていると思います。たとえば今度・・・がんセンターで、ホーソを使った癌治療が始まりますね。ほとんど知られていませんね。ホーソ。そういうことも教えてもらえるとかね。

そういった意味で、私の歳月にはいろいろな変化がありましてね。

 何を目標に生きましたかというと、看護協会に行って看護婦を100人くらい集めたところで話したこともあるのです。緩和ケア認定看護師とか緩和ケアアドバイザーの場へ行って話します。看護師ですから質問が出ます。患者の心理を掴もうと、質問が出ます。「あなたは4年間どういう目標を持って、何を・・・(注:発音不明瞭で記録できず)・・おいでになりましたか?」という質問が出ます。私はいつもこう言います。

まず一つは、ここに入院して、同じ口腔癌の人が沢山お会いしたのがすごい、・・・(注:発音不明瞭で記録できず)・・・になったのです。

私はまずここに入院しまして7階南で20数名のナースが居ます。その人の名前を全部フルネームで覚えました。どういう性格か、どこの出身かも調べましたね。そうすると、えらいもんでしてね、相手のナースも覚えてくれるんです。4年も経って最初から覚えているんですよ。今日も7階南に行きました。やっぱり人対人ですからね。そういうことを一つやったんですね。

 

 そして目標は私が4年数ヶ月前に入院したときに上の娘の孫は、生まれる直前だったのですよ。よし孫が生まれるまで生きていようと思ったのですね。下の娘はまだ独身だったのです。次は下の娘が結婚するまで生きていよう、と思ったのですよ。次は下の娘の孫が生まれるまで生きよう。この4年の間に孫が生まれました。今は上の娘の第2子の孫が4月に生まれます。これが当面の目標。私は9月生まれだが、誕生日が来るまで生きてみよう、そういうふうにですね、大きな目標でなく至近の目標、今自分が叶えることが可能であろう、可能性の高い目標に重点を置いて、私はやろうと。

 それともう一つは癌を研究しようと。癌の研究を始めました。私の狭い7畳半の書斎が、本がこの4年間で癌と医療関係の本でほとんど全部変わりました。癌関係の本だけで700冊くらいあります。ですから下手な医療者と癌の論争をしたら、負けないよという自負を持ってね。ドクターとか看護師とかは、癌のことに詳しいとは限りませんからね。詳しい人に聞かないと、変な情報が入ってダメなんですよ。ドクターもそう言ってます。そういう目標を立てて、毎日を頑張ろうと。

 私にとっては、ものを食えるとか、歩くこと自体がまともじゃないんです。今でも。皆さんは歩けるかもしれないけれど、私は骨1本を取ったので歩けなかった。今はほとんど分からないほどに普通に歩けます。

 一応時間の40分になりましたから終わりにします。ご質問があれば受け付けます。何でもご質問ください。ダイレクトに答えます。私は癌告知の翌日から、癌だと皆さんに電話をかけてね、・・・・。ただ私は2つの隠していることがあるのです。年齢、それから自分の職業を隠しております。なぜかというと、そういう先入観を持つ者が嫌いだったから。あとはすべて病状はオープンです。ですが、セカンドオピニオンのですね、回答書、こういう写真、それから初診検査書、情報提供書、すべて医療関係者に話をするとき公開しております。ただし成人病センターとかドクターの名前とか、固有名詞は削除した上で公開しています。英語のカルテは殆んどの人が読めないです。

そういうこともやっております。何か質問があったら、どうぞ。

(質疑応答:省略)

 ご清聴をありがとうございました。