私は舌癌のために、舌の3分の2と両頸部リンパ節を切除しました。このため言葉が思うようにしゃべれず、「社会復帰が出来るだろうか?」ということが入院中の一番の心配事でした。
退院後、リハビリのためには腹話術のテクニックが参考になるのではないかと思い、隣接の市に在住のプロの腹話術師を家に招いて相談をしました。腹話術の技法は直接には役立たないことが分かりましたが、そのとき腹話術の技術書の中の「音声学概論」という章のコピーをくれました。それが私が初めて「調音音声学」に出会ったキッカケでした。
そこには「腹話術をマスターするには、言語音がどのように産生されるかの基礎理論を身に付けておくことが大切」と書かれていました。
舌切除者も同様にリハビリのためには、「音声学的知識」が要ると考えました。 そこで、舌癌患者である筆者が自ら勉強して学んだことを「舌癌患者が語る音声講座シリーズ」ということで、3回に分けて皆さんにお話をすることにしました。
第1部は「発音のメカニズム」についてで、調音音声学の基礎的話です。
第2部は「発話・嚥下に必要な筋肉と発音障害」ということで、解剖学的話をします。
第3部では「音声分析」の話で、音響音声学と聴覚音声学の基礎をお話します。これらを一貫して読んでもらえれば、発音訓練に役立つと思います。
リハビリをするときに、こうした予備知識があるのとないのでは、リハビリの遣り方に非常に違いが出ると思います。
これらは、先生(医師、言語聴覚士)や看護師からでは教えてもらえない知識です。
私の舌の状態は、右図の上側の図のようになっています。手術後に残った舌は3分の1程度だけです。右図の淡い灰色で示してあります。
図から分かるように、舌根も4分の1切除されています。
濃い灰色で示した部分は大腿部の皮弁を移植して再建した舌です。
奥歯の多くが抜歯されてしまったので、点線で書いてあります。
矢印の位置で断面を切ると、図1の下側の図のようになります。一般の舌癌患者と違って、舌だけでなく、その下側の口腔底も切られています。再建した舌(灰色表示)は上から表面だけ見ると、図のように盛り上がっています。
次回お話しますが、オトガイ舌筋が切られているので舌を前に伸ばすことが出来ません。手術後5年経過時点では、前後方向に7mmしか動きませんでした。 当時の発音の障害の程度は、高度言語障害に該当しました。
皆さんは、「ア」とか「カ」とかいう声は声帯で直接作られていると考えていませんか?
私も昔はそう思っていました。
しかし、もしそうなら舌を切除しても言葉が不明瞭になることはない筈です。
では、どうして舌を切除してしまうと、一部の音声(音韻)が不明瞭になってしまうのでしょうか?
右図は、頭頸部の断面図です。赤い点線が肺から出た息(呼気)の流れです。 図中の甲状軟骨と呼ばれるものが、いわゆる「のどぼとけ」です。
声帯は、この「のどぼとけ」の内側にあります。図では赤い楕円で示されています。
皆さん、「のどぼとけ」に指を当てて見てください。ここで「アー」と言ってみてください。「のどぼとけ」が震えているのを感じることが出来ると思います。声帯は声帯ヒダという2枚の皮膜が合わせって出来ています。声を出そうとするとき、そのヒダが閉じます。その状態で呼気が声帯を通過すると、ヒダが振動して「ブー」という音が発生します。草笛と同じです。この音は喉頭原音と呼ばれています。
次にささやくように「ハー」と言ってみてください。声帯が振動していないと思います。声を出して「ハァー」と言ってはダメです。「ア」の振動が入ってしまうからです。
声帯で作られる音は「ブー」という振動音であって、「ア」とか「カ」と言った言語音ではありません。この「ブー」という喉頭原音やその他の音源から出る音が舌の形に応じて、口腔内で色々な音となって反響します。口腔の形状(主として舌の形状)とマッチした固有振動数の音だけが強調されることを共鳴と言いますが、口腔内で共鳴が起こった結果、「ア」とか「カ」といった特定の音だけが強調されて反響します。それが口から放出され、耳に届いた音が言語音です。これが、言葉を構成している元になる音です。
音声にかかわる器官としては、声帯・軟口蓋・硬口蓋・舌・歯茎・唇があります。軟口蓋と硬口蓋は聞きなれない言葉ですが、よく出て来る言葉なので、しっかり覚えておいてください。
硬口蓋というのは、いわゆる上顎の内側の部分で、指で押すと硬い骨があることが分かります。
軟口蓋というのは、ノドの奥に指を突っ込むと気分が悪くなり、「ゲー」となる部分です。ここには骨がないので柔らかです。いわゆる「のどちんこ」と呼ばれているものも軟口蓋の一部(一番端の部分)です。
軟口蓋は発話の時と嚥下の時、鼻腔の入り口を塞ぎ、呼気や食べ物が鼻に入るのを防いでいます。喉頭蓋は、発話の時は開きますが、嚥下の時は気管の入り口を塞ぎ、食べ物が気管に入るのを防ぎます。従って、嚥下中に声を出すことは出来ません。
声帯で喉頭原音が作られるメカニズム
右の図は、喉頭部の断面(図3)と、声帯が震える様子(図4)を描いたものです。
図の甲状軟骨(のどぼとけ)に注目してください。その内側が声門ですが、そこに声帯ヒダがあります。声帯ヒダを上から見ると、2枚のヒダがちょうど唇のように合わさって出来ています。その割れ目は声門裂と呼ばれていますが、呼吸しているときは、開いています。下側の図にその様子が描かれています。
しかし声を出すときは声門裂を閉じます。そうすると、息が通るとき、唇をぶるぶると震わせたような状態となり、声の元になる音が発生します。これを喉頭原音と言います。草笛の原理と同じです。 その様子を右側(声帯の動き)に示しました。図の左は、声帯ヒダが震えている様子(断面図)を示しています。下側から呼気が来て押し開けられ、すぐに閉じます。図の右は、その様子を上から見た図です。
声帯ヒダは、男性では1秒間に120回くらい、女性は220回くらい、子供は300回くらい開閉します。男性は声門裂の長さが長いので、振動回数が少なく低い音が出ます。女性や子供は短いので振動回数が多く、高い音が出ます。
では、「ア」とか「カ」とかいう音声は、どのようにして作られるのでしょうか?
まず母音(「ア・イ・ウ・エ・オ」)の発音についてご説明します。
母音は、舌の形を色々に変形させて、声帯から出て来た喉頭原音を口腔で共鳴させれば作れます。共鳴させると、その母音と同じ周波数の音だけが強調されて、「ア」「オ」などの母音になります。
右図は母音を発音したときのMRI画像です。個々の母音は舌の形を変えることで得られることが分かります。
たとえば舌の奥の方を高くして、口を大きく開ければ、「ア」という音になります。つまり「ア」と発音したいときは、舌の奥の方を高くして、口を大きく開けて声を発すれば良いのです。
逆に舌全体を前の方に倒して、硬口蓋(上顎)と接するくらいにまで上げて、声を強く出せば「イ」になります。
しかし多くの舌癌患者は舌の先を切除されているので、「イ」の構えを作ることが困難で、とても発音しにくいのです。そのため舌癌患者で舌先を切除された人の「イ(i)」の発音は、あいまいな「イ」、むしろ「エ」に近い音となります。母音以外の音は、子音と母音をくっつけて発音します。
たとえば「キ(ki)」は子音「k」と母音「i」を同時に発音することで「キ(ki)」の音になります。従って舌癌患者には、「キ(ki)」は発音のしにくい音になります。同様の理由で「イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・リ」(イ列音という)などは、どれも発音しにくい音になります。
「ウ」は口を余り開かずに舌の中頃を高くすれば「ウ」となります。
「エ」は口を横にやや開いた状態で、舌の前側を高めにします。
「オ」は口を縦にやや開いた状態で、舌の奥の方を高く上げて発音します。
「ア」との違いは、口を大きく開けるかどうかの違いです。
人類は舌の形を変化させて、固有の音(言語音)を作れるようになったのです。犬やサルは、舌が長すぎて一部の共鳴音しか作れないので、色々な言語音を作れません。人間は、単に声を出しているのではなく、言葉の意味を区別するのに必要な音を意識的に区別して出すことが出来ます。
意味を区別する音を言語音(音韻、音素、phoneme)と言います。
人間は言語音を組み合わせることで言葉を発明したのです。
たとえば、「ウエ(上)」と「ウオ(魚)」では、「エ」という音韻と「オ」という音韻の違いを識別することで、意味の違いを理解するのです。
ですから音韻があいまいだと、言葉が通じなくなります。舌切除者は、そこに問題があるのです。
「ア」や「オ」は大きく口を開けるので、口腔内での反響が大きく、しかも音量(呼気の量)も大です。だから音声が遠くまで届きます。音声が遠くまで届くレベルを聞こえ度と言います。
一般に聞こえ度の大きい音ほど明瞭に聴き取れます。ですから、「イ」はタダでさえ発音しにくいのに、舌と前歯の間の空間が狭いので音量(呼気の量)を上げられません。そのため「イ」は聞こえ度が小さく、益々聴き取りにくい音になります。
後で述べる子音も聞こえ度が小さいので、聴き間違えられることが多いのです。
山彦を作ろうとするときは、「ヤーホー」と声を出しますが、これは「ヤー」と言うと最後に「ア」が残り、「ホー」と言うと最後に「オ」が残り、聞こえ度の大きい音になるからです。ですから、「イーヒー」とは言わないのです。
怒鳴るとき「こら!」というのも同じ理由からです。「こ(ko)」も「ら(ra)」も最後に「オ(o)」「ア(a)」が残る子音なので、聞こえ度が大きいのです。
口腔内で言語音を作ることを調音(医学分野では構音)と言いますが、発音と同じ意味です。たとえば、発音に関する学問は調音音声学と言います。
ところで、言語音を発生させている音源は声帯の振動音(喉頭原音)だけではありません。口腔内のいろいろな箇所で、音を発生させています。右図で赤い○を付けた箇所は、音源の場所です。そこで発生する音に対しては、その場所ごとに図に表示したような名前が付けられています。
たとえば「カ(ka)」の子音「ク(k)」という音の構音は、軟口蓋(上顎の奥の部分)と舌背(舌表面)を接触させて、一旦呼気の流れをせき止めておいて、呼気に圧力をかけて、一気に流出させます。すると空気の乱流が起こって、破裂音(小さな衝撃音)が発生します。それが子音/k/の音です。
これは軟口蓋音と呼ばれる音ですが、舌根近辺の筋肉を切除された患者の場合は、軟口蓋と舌背との接触が不完全になり、呼気の完全な閉鎖が出来ないケースがあります。
その場合、無理して「カ行」を発音すると、図中の黒い〇で示した位置で呼気をせき止めようとします。そうすると、「カ行」とは少し違った音(咽頭音)が発生します。
筆者は舌根の4分の1を切除したために、「ガ行」を発音するときに、咽頭音になってしまう傾向があります。このように舌切除者の言語音は、健常者のそれとは違った音になります。音韻(音の聴覚印象)が不明瞭な音になります。それが障害音です。
以下では、健常者が正しい発音をした場合の音声学の話をします。
このような音源が日本語の場合は14種類あります。それらの音源によって作られる音韻が子音です。
表1(国際音声字母による表記)
左表は日本語の子音を音の作り方で分類した表です。
記号は国際音声字母(記号)と言われるもので、これによって表される音は世界共通の音です。英語の発音記号にはない記号もあります。表では赤字で示しました。また( )内は代表的音節を表しています。
子音の音源は、その発生方法(調音法)と発生箇所(調音点)によって、その種類が決まります。
調音法というのは、音源の発生のさせ方のことで、破裂音・摩擦音・破擦音・弾音・鼻音・半母音に分けられます。
調音点というのは、音源の位置のことですが、唇・歯茎・歯茎硬口蓋・硬口蓋・両唇軟口蓋・軟口蓋・声門の7箇所に音源があります。
たとえば、唇のところで、一気に呼気を吐き出すと、「パ(/pa/)」の子音「プ(/p/)」という音が発生します。これは調音法が呼気の破裂によるものなので破裂音と呼ばれます。しかも唇のところで音が作られるので、両唇破裂音と呼ばれます。
一方、音韻は音源の種類の他に声帯の喉頭原音(声)を付随するかどうかで、決まります。「ガ・ザ・ダ」などの音を日本語では濁音と言いますが、これらの濁った音は、子音を発するときに喉頭原音を付随するためなのです。音声学ではこのような子音を有声音と言います。
そうでない音(濁らない音)を日本語では清音、それを発するときの子音を無声音と言います。「カ(ka)」の子音/k/は無声音ですが、「ガ(ga)」の子音/g/は有声音です。
有声音か無声音かの違いは、「のどぼとけ」に指を当てることで識別できます。たとえば子音「プ(/p/)」は指を当てても、何の振動も感じられません。だから子音「プ(/p/)」は両唇無声破裂音と呼ばれます。
同じように「ブ(/b/)」を発音すると、「のどぼとけ」が震えるのが分かります。そして、唇のところで音を作っているのを感じる筈です。ですから「バ(/ba/)」の子音「ブ(/b/)」は両唇有声破裂音であることが分かります。
このように調べて行くと、音源は14種類ですが、有声音・無声音の区別を入れると、日本語の子音は23個あります。
なお、音韻の表し方にはルールがあります。
これは音韻を文字で表すとき、意味を表す文字と区別するためです。日本語では、たとえば蚊を表すカという文字と、音韻としてのカを区別するために、音韻を表すときは「カ」のようにカタカナをカギ括弧で囲んで書きます。これは意味を表すものではなく、「カ」という音を表す記号です。正式には表に記載した世界共通の国際音声字母で書きます。英語のアルファベットにない文字もあります。
しかし、たとえばパ行の子音「プ(p)」という音も、厳密に言えば人によって若干の違いがあるので、それらを代表した音として表記するときはスラッシュで囲んで/p/のように書きます。しかしその音そのものを表すときは、それを発音記号として [p]と書きます。
以上をまとめると、母音とは喉頭原音が口腔内の共鳴によって強調されて作られる音韻のことです。母音の特徴は、発音時間を任意に長く取れること、発音が安定していて、聞こえ度が大きいことです。
一方、子音とは喉頭原音以外の音源が口腔や鼻腔の中での共鳴によって強調されて作られる音韻のことです。子音の特徴は、一般的に発音時間が短く、しかも発音が安定しているとは限らず、聞こえ度も小さいことです。
右図は、英語の母音/i/のMRI画像です。
右側の画像は、顔を正面から見たときの舌の断面図ですが、舌の横幅が狭くなり、舌の上表面は中央部で鋭く凹んでいます。
舌の断面形状で見ると、この点が他の母音と大きく違うところです。結果、舌と上顎(硬口蓋)は中央部だけにわずかに空隙を残して、殆ど軽く接しています。このような構えで「イ」を構音すると、鋭い「イ」の音となります。
なぜ「イ」の構えでは、舌の中央に呼気の流れ方向に沿って深い溝を作るかというと、舌と上顎(硬口蓋)の間が狭いので、そのままでは呼気の通り道が塞がれた形になってしまうからです。このような深い溝を作っても、かなり勢いよく呼気を押し出す必要があります。
舌の切除手術直後は、呼気を押し出す筋肉が腫れているため、強く呼気を押し出せません。それで「イ」の構音が出来ない場合があります。
日本語の「イ」は、このような鋭い「イ」から、「エ」に近い音まで、かなり広い幅で許容されています。
以下では、この鋭い「イ」は「イ(/i/)」と書きます。
ところが、筆者のように舌先及び舌の片側半分を切除してしまうと、それが出来ません。それで、「イ」が「エ」に近い音となるのです。
下の拡張五十音表でイの列の音「イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・リ」などをイ列音と呼びますが、イ列音でも同じことが言えます。
舌切除者はこのことを理解しておくべきです。つまりイ列音を含む単語は極力避けて、別な言葉に置き換えるように心がけると良いでしょう。
言葉の意味を区別する言語学的最小単位を音節と呼びます。
たとえば「アサ(朝)」と「アカ(赤)」は、「サ」と「カ」の違いで意味の違いを区別しているから、「サ」と「カ」は音節です。
多くの民族の言語では、1つの音節は1つの母音を中心に、その前後に幾つかの子音が付随した形になっています。だからどの言語でも、明瞭性が一番高い母音を言語の基本骨格として、音節が形成されています。
たとえば、英語の単語:stop(「ストップ」)では、「o」という母音の前後に子音s,t,pが付随して1つの音節を形成しています。単語それ自体が、1つの音節ということになります。
それに比べると、日本語の音節は非常に単純です。
①母音(a、i、u、e、o)単独か、亦は②子音と母音(後続母音という)の結合音で作られています。
たとえば「カ」(/ka/)という音韻は、/k/という子音の後に/a/という母音が結合して作られています。日本語でも「カ(蚊)」という1音節で単語となるものがありますが、このようなものは沢山あります。
子音は、口腔内で作られる音源のため、一般に永続させることが困難です。ですから「カー」と長く発声すると後続母音の「ア」(/a/)だけが残るのです。
日本語には、100種類の音節があります。
それを系統的に並べたものが日本語の拡張五十音表です。
これは、直音と拗音に分けられます。さらに清音と濁音に区分されます。
拗音というのは「ャ・ュ・ョ」という添え字を付けて表される音です。
表2は、直音についての拡張五十音表です。
表3は、拗音についての拡張五十音表です。
この表で記載されている代償法、擬似的代償法については、後述します。
代償法、擬似的代償法として四角でくくられている音節は、舌切除患者が発音しにくい音節です。このような音節に対しては、後述の代償法、擬似的代償法を使うことで、言葉の不明瞭性を改善できます。
表2 拡張五十音表(直音の部)
表3 拡張五十音表(拗音の部)
口腔内のどこか1箇所で呼気の流れを一度止めて、それから一気に呼気を吐き出すと、空気の乱れによる衝撃音(小さな爆発音)が発生します。それを破裂音と呼びます。
右図(図8)は代表的な破裂音の構音の仕方を図示したものです。赤の点線で示した呼気の流れが、どこでせき止められるかに注目してください。
破裂音がどこで起こっているかという観点からみると、「パ行」は唇のところに音源が発生するので、両唇音です。「タ行」は歯茎のところに音源が発生するので、歯茎音です。「カ行」は舌を軟口蓋(上顎の奥の部分)にくっつけた部分に音源が発生するので、軟口蓋音です。
たとえば、「パ行」は唇のところで、呼気をせき止めて破裂音を作ります。ですから両唇破裂音と呼ばれます。 (図8参照)
「タ行」は、舌先を上顎の歯茎周辺にベタリと接触させて、呼気をせき止めて破裂音を作ります。従って歯茎破裂音と呼ばれます。
呼気を完全にせき止めるためには、歯茎のところで、上図の下側に赤で示したように、ベタリと舌を押し付けることが必要です。
しかし舌先を切除した舌癌患者の場合は、このような動作を行えません。従って呼気の閉鎖が不完全になります。そうすると、呼気が歯茎付近から漏れて、摩擦音を発生させてしまい、「サ行」の音に近くなってしまいます。
そこで筆者は代償法を使っています。それは、下唇を舌先の代用として使う方法です。その方法は、上顎の門歯(前歯)と下唇の内側を接触させて、呼気を完全にせき止めるやり方です。そして一気に呼気を流出させると、破裂音が発生します。こうすることで、「タ行」に近い構音にすることが出来ます。
しかし本質的には「似て非なる歯茎音」で、/t/と/p/の中間の音ですので、「パ行」の音に聴き間違えられることもあります。
「カ行」は、舌の後方を軟口蓋にピッタリと接触させて、呼気をせき止めた後、一気に呼気を破裂させることで構音されます。従って軟口蓋破裂音と呼ばれます。
呼気を完全にせき止めるには、図の下側に赤く示したように、舌を軟口蓋にピッタリと接触させることが必要です。
しかし筆者のように、奥舌の片側 まで切除されていると、呼気の閉鎖が不完全になり、やはりおかしな「カ行」になってしまいます。これを避けるためには、意識的に舌を強く盛り上げて、軟口蓋との接触面積を広くする努力が必要となります。
「パ行・タ行・カ行」を構音するとき、同時に声帯の声門裂を閉じて、喉頭原音を発生させれば、先ほどの表に出て来た有声音「バ行・ダ行・ガ行」となります。
呼気の通路(声道という)を非常に狭くして呼気を勢いよく流すと、空気が壁面とこすれる音が発生します。これを摩擦音と言います。
たとえば、「サ行」の子音「ス」/s/です。これは歯茎と舌の間隔を狭くして、呼気を勢いよく流したとき、歯茎とこすれる摩擦の音で、「サー」という雑音です。
右図は摩擦音「ス」/s/と「シュ」/S/の舌の構え方を示します。
下側の図の赤い部分が示すように、舌の辺縁を硬口蓋に接触させ、中央に狭い隙間を作り、点線に沿って呼気を勢いよく流せば、これらの音が得られます。ただ「サ行」の子音に比べると、「シ」と「シャ行」の場合は呼気の通路幅がやや広めとなります。この場合は、「シャー」という雑音が発生します。
舌先が片側しかないような舌癌患者は、舌と硬口蓋の接触面積が不十分なため、狭い隙間を作れません。だから、発音しにくい音です。
また、中央に狭い隙間を作るには舌を高く構える必要があるので、その点でも「イ」と同様に、舌先のない舌切除者には発音の難しい音です。
そこで「タ行」と似た代償法を使うのが良いでしょう。この代償法も、下唇を舌先の代用として使う方法です。
その方法は、上顎の門歯(前歯)と下唇の内側の間にわずかな隙間を作り、その隙間に呼気を通して摩擦音を作る方法です。こうすることで、「サ行」や「シ」に近い発音にすることが出来ます。
この他に無声摩擦音にはハ行(「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」)があります。
「ハ行」も無声摩擦音です。「ハ」「ヘ」「ホ」は声帯の声門を呼気が勢いよく通過するときの摩擦の音が音源なので声門音と呼ばれます。「フ」は音源が唇にあるので両唇音と呼ばれます。
「ヒ(/C/)」「ヒャ行」は音源が硬口蓋にあるので、硬口蓋音と呼ばれます。
「ヒ」「ヒャ行」は、舌切除者には非常に発音が難しい音です。硬口蓋で摩擦音を発生させるためには、舌の構えを「イ(/i/)」にする必要があるからです。「ヒ(/C/)」は、「イ(/i/)」の構えで、舌背を「イ」よりももっと硬口蓋に近づけた構えを取ります。
ところが舌先を切除した舌癌患者では、舌の先端を硬口蓋にまで届かせることが出来ません。ですから、基本的にこのような舌の構えを取ることが不可能なのです。筆者の場合は、「ヒ」の音は30種類もの他の音に聞き取られていました。例えば「ヒコーキ」が「エコーキ」になりやすいのです。
破擦音は、破裂音の後の呼気を歯茎に流して、摩擦音も同時に生じさせることで得られる音です。
具体的には、「ツ(ts)」と「チ(tS)」です。
「ツ(ts)」は、右図を参考にして、破裂音/t/を作ると同時に、摩擦音/s/を発生させることで得られます。
「チ(tS)」は、右図を参考にして、破裂音/t/を作ると同時に、摩擦音/ tS/を発生させることで得られます。
「ジ」と「ヂ」は「シ」と「チ」の有声音ですから、「シ」と「チ」を発音するときに、声帯から喉頭原音を発生させれば(声を出せば)得られます。
破擦音は、舌切除者には発音の難しい音ですが、前述の代償法が利用出来ます。
鼻音というのは、2つの段階を経て作られる音です。
まず呼気の流れを歯茎または唇で一時的に閉鎖させて、そこから一気に噴出させることで、声帯から出た喉頭原音(声)を破裂させ、破裂音を作ります。
通常言葉を発する時には、鼻腔への入り口を軟口蓋で塞ぎ、呼気が鼻腔に流れないようにしますが、鼻音の場合は、軟口蓋を開いて、呼気を鼻腔にも流します。従って、歯茎または唇のところで生じた破裂音は反対方向にも向かって鼻腔内にも伝わります。そして鼻腔内で反響して鼻から出て来ます。
右図の赤の点線で呼気の流れを示していますが、呼気は鼻腔と口腔の両方に流れるので、歯茎や両唇のところで発生した破裂音が鼻腔内で反響しながら、鼻腔からも出て来るのす。このようにして作られた音が「鼻音」です。
代表的なものは、ナ行の子音/n/とマ行の子音/m/です。
子音/n/は、右図のように舌と歯茎の間で作られる歯茎破裂音/t/から生じた鼻音です。
子音/m/は、唇で作られる両唇破裂音/p/から生じた鼻音です。
従って、子音/n/は舌切除者には発音しにくい音となります。
そこで/n/を発音するときは、/t/と同様に、下唇の内側と門歯との間で破裂音を作るという代償法が使えます。
しかしこのような代償法による子音/n/は、両唇破裂音/p/に似たところがあり、舌切除者のナ行とマ行はお互いに間違って聴き取られることが非常に多いのです。同じ理由から、マ行はパ行に誤聴されることもあります。
「ニ」と「ニャ行」の子音/ɲ/は、舌切除者が発音しにくい鼻音です。
これは、舌先を歯茎に接触させるのではなく、/n/よりももっと硬口蓋側で接触させます。このように舌先を硬口蓋側にずらす事を硬口蓋化と呼んでいますが、舌先を切除した舌癌患者の場合、舌の先端を硬口蓋にまで伸ばすことが難しいので、非常に発音しにくい音となります。
後述のイ列音と拗音でも、英語の「イ(/i/)」の構えのまま 硬口蓋化させる必要があるため、舌切除者には非常に発音しにくい音となるのです。
しかしこのような代償法による子音/n/は、両唇破裂音/p/に似たところがあり、舌切除者のナ行とマ行はお互いに間違って聴き取られることが非常に多いのです。同じ理由から、マ行はパ行に誤聴されることもあります。
「ニ」と「ニャ行」の子音/ɲ/は、舌切除者が発音しにくい鼻音です。
舌先を硬口蓋方向に反り上げて、1回だけ歯茎に打ち付け、舌先が歯茎に接している間は息を舌の両側から流すことで作られる音を弾音(ハジキ音と読む)と言います。
代表的な弾音は、「ラ行」の子音「ル」/R/です。
弾音は、基本的に歯茎を舌先で1回だけ弾くことで生じる音のことです。何度も弾くときは日本語では、巻舌音、英語ではふるえ音と呼ばれています。
弾音は、2つの音響的特性が瞬間的に変化する「音」です。
(上図を参照しながら、舌の動きを理解してください)
①初めは、舌を硬口蓋に沿って反り上げます。これは、英語の/r/(アール)に似た音になります。
②次に、舌先を歯茎に1回だけ接触させます。このときには、声が舌の両側を通って流れるので、英語の/l/(エル)に似た音となります。
ですから、弾音は舌先を連続的に移動することによって、2つの音を変化させるところに特徴があります。
その音の変化が子音「ル」/R/の音韻らしさを出しています。人間は、この音の変化が大きいとき、子音「ル」/R/を知覚します。変化の大きさが小さいと、「ラ行」として知覚しません。
なお、日本語の子音「ル」/R/と英語の/r/では、舌端の動かし方に違いがあります。英語の/r/では、硬口蓋を舐めるように動かしますが、日本語の子音「ル」/R/では、歯茎をたたくことを狙って舌端を動かします。また歯茎をたたくとき、舌端をすぼめて両側から呼気がもれるようにする点に特徴があります。
このように「ラ行」は舌先を短時間に移動させるので、やはり舌切除者には発音しにくい音です。残念ながら、その代償法はありません。
しかし筆者は、舌先の代わりに中舌の舌背を極力高く上げて、硬口蓋に近づけることで「弾音モドキ」の音を作るという擬似的代償法を使っています。
日本語の半母音には、「ヤ行」の子音/j/と「ワ」の子音/w/があります。母音に似た特性と子音的特性を兼ね備えているので、このように半母音と呼ばれています。
舌切除者にとっては「ワ」は特に難しい発音ではないので、省略します。
子音/j/の発音の仕方は、2段階のステップを踏みます。
①初め舌背を「イ」よりも高くして、硬口蓋との間に軽い摩擦音を発生させます。いわば、英語の「イ(/i/)」の構えで声を出します。これは「ヒ」の子音の構えと同じです。
②それに引き続いて、舌背の位置を前方から後方へ移動させて、母音/a、u、o/の構えで発声します。この変化が明確なほど、子音/j/らしく聞こえます。これらは、舌切除者には非常に難しい構音操作です。
たとえば「ヤ」は、「イ(/i/)」→「ア」に瞬間的に変化する音ということになります。
「ユ」は、「イ(/i/)」→「ウ」に瞬間的に変化する音ということになります。
「ヨ」は、「イ(/i/)」→「オ」に瞬間的に変化する音ということになります。この変化は音響学的にも明瞭で、第3部の音声分析でお話します。
拗音の構音もヤ行と同様になります。たとえば、「キャ(/kja/)」は
「キャ(/kja/)」=「ク(/k/)」+「イ(/i/)」→「ア(/a/)」の変化音
と言った構音の仕方となります。
ヤ行と拗音の発音は、
①英語の「イ(/i/)」の構え
②中舌・奥舌タイプの母音への舌背の変化(「わたり」という)
という2ステップを要するため、舌先を失った舌切除者には発音が難しい音です。
筆者の音声に対しては、「イ」は40%くらいの人が正しく聴き取れますが、ヤ行や拗音は殆んどの人が正しく聴き取れません。それだけ、デタラメな発音(音韻)になっているという証拠です。
声帯の振動音(喉頭原音)を音源とする言語音は有声音と呼ばれています。代表例は母音です。
しかし、子音の中には喉頭原音が音源でないものがあります。それを無声音と言います。代表例は破裂音の/p,t,k/、摩擦音/s,S/です。
子音の中には、喉頭原音(声)とそれ以外の音源の2種類の音源があるものがあります。代表例は、破裂音の/b,d,g/と摩擦音/z,Z/です。
日本語では上付きの“で表される音(「バ行・ガ行」など)は濁音と呼ばれていますが、これらの破裂音と摩擦音は濁音の代表例です。
濁音の濁った聴覚的印象は、喉頭原音(声)が加わったことによるものです。
子音でも、喉頭原音が優勢的なものがあります。その場合は無声音が存在せず、すべて有声音です。代表的には弾音/R/、鼻音/m,n, ɲ /があります。
しかしこれらは、日本語では清音に分類されています。母音と弾音と鼻音は有声音ですが、清音に分類されています。
なお、日本語の濁音はすべて有声音です。
今までの説明から、舌と硬口蓋の接触が大切であることをご理解いただけたかと思います。
ところが舌を切除すると、思うように舌と歯茎や硬口蓋との接触が出来なくなります。
一例として、舌半側切除者が「アタ」([ata])と発音したときの舌と硬口蓋の接触状態の時間的変化を下図に示しました。図に向かって右側が舌を切除した側です。
これは、上顎に人工口蓋(硬口蓋を模ったもの)を装着し、舌が接触した部分を電気的に検出したものです。
①「アタ」([ata])と発音するときの「ア」の発音では、舌と硬口蓋は非接触です
②次に「タ」の発音をするために、硬口蓋との接触を開始すると、接触面積が拡大します。
③「タ」を完全に発音するには、/t/の直前で呼気を完全に止めて、一気に放出する必要があります。しかし、舌切除側は殆んど接触せず、/t/の破裂に充分な接触面積が得られていません。破裂の前に呼気が漏れているためです。その結果、歪んだ「タ」の音となります。
舌を切除すると、このようなことが生じて、音韻が不明瞭になるのです。
(1)「臨床音声学の理論と実際」 濱崎健治 慶應通信 1999.10.10
(2)「構音訓練のためのドリルブック」 日本音声言語医学会 言語委員会編 協同医書出版 2002.6.20
(3)「口腔・中咽頭がんのリハビリテーション」 溝尻源太郎・熊倉勇美編著 医歯薬出版 2004.10.20
口腔・咽頭がん患者会
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